近ごろ「純愛」ばやりで、やれ「セカチュー」だの「冬ソナ」だのって騒がれております。
「純」と、言えば宝焼酎「純」、あるいは「純喫茶」などを思い浮かべてしまう私のような不届き者が「純愛って何?」と周囲に聞けば、おおよそ次のような答えが返ってきます。
「体のカンケイのない一途な愛(キスくらいはOKらしい)」
うん?それって、ただのプラトニック?…いや、プラトニックは精神的恋愛だから、「純愛」とはちょっとニュアンスが違うなあ。
巷で言われている「純愛」って、猪突猛進みたいに相手のことを思って自分を投げ出すような恋愛なわけですよね。それくらいだとただの恋愛だってそんなことあるぞ。プラトニックだと、もっと静かなイメージだけど「純愛」だともっと泥臭く人間っぽい?苦しんでいる感じ…
じゃあ、初恋みたいな感じ?うーんそれだと随分子供っぽいし、一方通行だし…
あっ!そうか、「純愛」ってのは永遠にその思いが汚されることなく自分の中で続いていくって感じなのかな?例えば相手が死んじゃうとか。あるいは死ぬも同然、例えば記憶喪失とかね。相手が病気になるとか、目が見えなくなるとか。そうなると体のカンケイどころじゃなくなってきますしね。
どうも「体のカンケイのない」というところがミソみたいですね。
しかーし!!ハッキリ言いましょう!「カラダのカンケイのある純愛」はしたいと思っていても「体のカンケイのない純愛」に憧れるような間の抜けた男が一体この世にいましょうか!
少なくとも過度に求めてはいないが「何か機会があればそうなってもいいかも」くらいには絶対に思っているはず。なぜって、なんだかんだ言いながらも、結局それが男の生理だからです。
「種をバラ蒔く」それが男の生理です。体の機能がそうなんだからしょうがない。DNAが「オレという遺伝子を残せ〜」と、命令しているのです。ですから、例え「純愛」しているときでも、体の中では「遺伝子を蒔く機会」を狙っているのです。
種は畑がないと育ちません。しかし、その畑は非常に狭く、ひとつの種しか蒔くことができません。畑は出来るだけ質の良い、そして大きく丈夫に育つ種を選ばなくてはいけません。
「蒔く種を選ぶ」。これが女の本能です。ですから、「純愛」しているときも、「この種はうまく育ちそうか」と、体の中で選別しています。畑というと語弊があるでしょうが、実際畑も肥えた土地、痩せた土地、水はけが良くなかったり、手入れのされない土地など色々ありますから、やはり、うまく自分の種が育つような畑を男のほうも選ばなくてはなりません。
まあ、男の場合は、「この畑はイマイチだったから今度は違う畑…」という選択肢がありますから、女ほど真剣に選ばなくてもよいように出来ています。なにしろ、少しでも遺伝子が残せるようにと、DNAが働きかけていますから、男はその命令に逆らえません。つまり、こんなことを言ってしまうと、男の味方のように思われてしまうかもしれませんが、「浮気をするのはDNAに命令されているからだ」とも言えます。ま、浮気心の多い人はそれだけ原始的な人間ってことでしょうか。
そうそう「純愛」の話でした。
結論から言うと「純愛」ってのは結果論で、あとから「あれは純愛だった」と言うことはできても「私たち、今、純愛中でーす」なんてーのはあり得ません。(あったらアホですな)
男の遺伝子にとっては「蒔き損なった!!」という苦い思い出であり、女の遺伝子においては「あれはいい種だったのだろうか??」といつまでも疑問が残ってしまう。それが
「純愛」なんですね。
「純愛」は総じて若い(あるいは恋愛が未熟な時代)に形成されます。私が思うに、あまり馴れていないせいで、まだ遺伝子もうまく操縦ができないんではなかろうか。つまり、遺伝子が運転手、私たちの体や脳味噌が車だとしましょう。
まあ、大抵ハンドルやブレーキ、ウィンカーなどの位置は分かりますから運転はできます。遺伝子が気持ちよく運転を続けていると、そろそろ音楽でも聴きたくなってきます。ちょうどナイスなラジオ番組がはじまろうとしているところ。ところが、オーディオの使い方が分からない。どうしよう、どうしよう…と、あちこち捻っているうちに結局番組が終わってしまう。この「番組」が「恋愛」であり、「聴けなかった番組」が「純愛」
そういう意味では遺伝子の介入のない人生で一度しかない貴重な「恋愛」ですね。
しかし、そんな「純愛」経験のない私。遺伝子にとっては結構操縦しやすかったのかも…
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