一度、こんなことがありました。

 そば屋へ行ったときのことです。そこは「蕎麦屋」と書いた方がいいくらい、古い建物で歴史ある有名店です。お客さんは男も女も半々くらいの割合。会社の昼休憩に来た人や、上司と部下みたいな人。取引先の関係の人たち、奥様連中。みんなざる蕎麦や天ぷらそばなど、思い思いのそばを注文して食べています。そんな中、ひとりの女の人がお客で入ってきました。その人は、まずそばではなく、卵焼きと焼きのりを注文しました。そして、「お酒を一本」と付け加えたのです。よくみると、他にも酒を飲んでいる人がいます。女の人は、卵焼きと焼きのりを肴にしばらく酒を楽しんでから、ざるそばを食べ始めました。
 ついつい私はその人に目が行ってしまいました。なぜかと言うと、その人はモデル並に綺麗な人だったからです。もちろん、普通にしていても目を引く存在ですが、私はその粋な食べ方にすっかり感心してしまいました。(一体何してる人だろ)そんな風に思いました。

 蕎麦屋での出来事で、私はずっと、(モデルさんかなあ、仕事の途中なんだろうか、それとも何か全く別の関係の人で、商売かなにかやってる人かなあ、昼からひとりで飲んでこれから仕事?それとも…)などと、しばらくずっと考えていました。彼女は人の想像力を掻き立てるような注文をしていたのです。

 もし、彼女が普通に天ぷらそばを食べていたなら、男だったら、綺麗な人じゃなかったら、一人じゃなかったら、そこまで思わなかったでしょう。「綺麗な女が一人で卵焼きと焼きのりを肴に蕎麦屋で酒を飲む」この取り合わせが想像力の発端です。

 想像力を掻き立てられる食事は楽しいものです。前回も書いたように、食事の場は舞台ですから、気を引く人物の登場は大歓迎!まさか、その女の人がそんな食事をすると誰が思うでしょう。 見た目とのギャップ。やられた!という気持ちいい裏切り。そういったことがたまにあると、嬉しくなります。

 知らず知らずのうちに、自分らしさを表現してしまっている。それが食事の場です。いくら綺麗で最先端のファッションに身を包んでいても注文の内容にセンスがない人は沢山います。反対に、取り立ててお洒落ではないけれど、「お!デキるじゃん!!」という注文をする人もいます。一体何が「デキて」何が「デキないか」。それも、食事の空間を楽しむ姿勢かそうでないか、という単純な理由から来ています。状況や周りを見て今自分がどういう立場に置かれているか。ということを理解出来ない人が、たまにいます。

 こんなことがあります。何かの雑誌のデザート特集にある店の自慢のプリンが掲載されました。翌日からお客さんが沢山来てくれます。すると、中には、注文がプリンだけ、と言う人がいるんですね。その店はビストロで、れっきとした料理屋です。カフェでもありません。そんなところでプリンだけしか頼まない人というのは、もう明らかに「デキない人」です。自分がビストロにいる、という簡単なことが分からないのです。

 また、こういう人たち。ランチを食べ終わり、デザートも食べ終わったしコーヒーも飲み終わった。なのに、そこから1時間くらいお喋りを続けているような人がいます。いえ、それだけならまだいいでしょう。入り口に並んで待っている人たちがいたとしても、そういうことを無視して喋り続けている。という光景を何度か目にしたことがあります。これも自分たちの置かれている立場を理解していません。

 以上2点の例を出しましたが、こういうことをするのは圧倒的に女です。女は食事という空間を楽しむ姿勢に欠けている人が多いと言えるでしょう。なのに、不思議なもので、飲食店のセオリーとして「女性客を掴まえろ」というのがあります。たしかに、繁盛している店には女性客が沢山いますね。では、そう言う店が面白くてライブ感があるかというと、そうではない。繁盛している店が面白い店というわけではないのです。

 私が最近行った面白い店を紹介しましょう。そこは田舎にある一軒の酒屋でした。私は夕方、法事の使いで、酒を買いにそこへ立ち寄りました。初めて行った店です。そこは沢山の男で溢れていました。みんな真っ赤な顔をしてこちらを振り返ります。店に入った私は男どもの間を掻き分け、カウンターのおばちゃんに言いました。「おばちゃん、お酒分けてくれへんやろか」おばちゃんが答える前に、何人もの男が「おい!酒やて、ええ酒分けたってんか!」と大声で喚いています。ひとりのおじいさんが私の横に来て、「まあ、一杯どうやな」と、言います。おばちゃんが酒を出している間にも、次々と「まあ、暑いでビールでも」「あんた、車か?」などと、賑やかに声をかけられます。お勘定の段になると、みんなが「サービスしたってな!」「おばちゃんまけたれや」と応援され、私はいちいち「あれえ、車やで飲めへんのさ」「随分応援してもろてるわ」「みなさんお先に」などなど、一本の酒を買うまでの間に、一体何人と言葉を交わしたことでしょう

 そこは俗に言う「立ちキュー」というところで、酒屋と飲み屋が一緒になっているところです。まず、女の客はいません。飲み屋と言っても、つまみはスルメやゆで卵、魚肉ソーセージなどで、酒もビール、日本酒くらい。まあ、すごいライブ感でしたね。流行っていて面白くない店がスーパーだとしたら、「立ちキュー」はさしずめ近所の八百屋といったところでしょうか。

 「立ちキュー」の何がいいかというと、そこがどういう場所かちゃんと分かって来ている人たちばかりだということ。私も、興味はあっても、行くことはないでしょう。だって、そこは私が行くような場所ではないからです。せいぜい酒を買いにいって、その雰囲気を楽しませてもらう。それで充分。そんな風に誰もが気軽に行けってはいけない店というのが存在するのです。私がおばあちゃんになったら、いつか行ける日が来るかもしれませんね。そうしたら、ゆで卵とビールという「デキる」注文でもって夏の夕方を過ごしたりしてみたいものです。

 

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